一生に一度は食べたい極上の素材−匠探訪
技と知と心
板マス
板マスが揚がりました。函館市場に一本揚がっていたものを落札したものです。なかなかお目にかかれない鱒ですが、実はサクラマスの変種なのです。
鮭に鮭児という変種があるのと同様に、サクラマスにも変種がございまして、見た目は非常に胴の幅が広く、肉厚であることです。
7年ほど前には年間数本お目にかかれた時がありましたが、それ以来めっきり見ることが少なくなった魚です。地元の水産関係の方にもご存知ない方がたくさんおられます。
「今年は板マスが揚がっていたら高値でも良いので、おもいきって札を入れて落札してきてほしい。」と、弊社仕入れ主任に伝えましたが、見たことが無かったらしく、「どんな魚ですか?」と返答が返ってきました。
「ハラスが異常に下に広く、甲がとても高くて胴が普通とは全く違うものだから、すぐにわかるよ。」と伝えたのですが、実際その目で見るまでは、なかなか理解しがたかったようです。
板マスの名前の由来は、まな板のように四角っぽい形をしていることからつけられたものです。それくらい胴が広い魚なのです。
実際、板マスに出会うまでは、「これかな?」と、何本か落札してきたのですが、すべて違うものでした。そして最後に持ち帰ったものは本物で、見た目にも全く違うことが理解できたようです。 このように、少し違うという程度ではなく、まったく違うと言ってよいほど、幅が広いのです。
ハラスが広いことから脂身がとても多く、しかしながら天然物ですので、その味はあっさりとした味で、一度は食べてみたい魚です。全道でどれほどの数が揚がるのかは不明ですが、鮭児よりも少ないかもしれません。
それほど希少な魚なのです。私たちも7年ぶりに手に入れました。 ちなみにマスノスケは今年は不漁な年のようで、シーズン中お目にかかれたのは2度だけでした。その一本は私たちが落札しました。
カスタムメイド、マキリ
マキリが出来上がってきました。京都の老舗、有次さんにお願いしていたのですが、想像以上の出来栄えと使い勝手に、また一生ものの道具が加わり、感無量です。 漁師が使うマキリは本当によくできており、船上で作業をしていて海にマキリを落としても浮くようにできています。
プロが使う道具はいついかなる時でも仕事ができるように、頑強かつ機能性が高く、信頼できるものでないと使えません。余計なものがなく、シンプルでいて必要なものが備わっていることが条件です。あくまでも仕事をこなすことを目的として作られています。マキリは、揺れる船の上でつかいやすく、ほとんどの魚をさばける形状をしており、漁師にとっては絶対欠かせないものの一つです。
料理人あがりの私はそれまで使っていた包丁からは想像できなく、初めてお目にかかったときは、「使えない」と思ったのですが、これが実際使ってみると、本当によくできた包丁であることを実感させられたのです。それ以来、マキリは欠かせないものの一つとなりましたが、ひとつだけ不満があったのが、あまり切れないことだったのです。
普通に使う分にはなんら問題ないのでしょうが、私は包丁の切れ味に特にうるさいので、カスタムしていただくことになったのです。出来上がり送られてきたマキリは素晴らしいものでした。さっそく使ってみましたが、ぬめりのある薄皮にもストレスなく包丁が入り、二度手間をすることなく一度で切れてくれます。
大量に魚をさばく水産メーカーですので、切れ味が良いことは手が疲れないことを意味します。そして何より、美しく魚が捌け、仕上がりが良いことが嬉しいのです。

有次作、「マキリ」
マキリ
先日、京都の有次さんに包丁を作ってもらう依頼をしました。マキリという漁師が使う包丁です。有次さんの大将には若い頃、京都のお店で包丁の研ぎ方を教えていただいたことがあります。
丁寧にきちんと教えてくれたことが今も鮮明に記憶に残っており、それ以来、型を崩さないように研いでいます。最近ではイカを捌く時の包丁を依頼したのですが、その時は代用できる包丁は無いかと探してくれ、腸裂き包丁を案内していただきました。
イカの墨を破らないように早く捌く包丁は無いものかと探していたのですが、これがぴったり思い通りの包丁で、それ以来、イカ裂きには無くてはならないものになっています。
イカが生きているものですから、包丁の先で墨を破ってしまうことがあるのです。墨を破ってしまうと身につき、拭いても綺麗には取り除けません。包丁の切っ先が丸くなっている包丁を作ってもらおうと依頼したのですが、これならどうですか?と、腸裂き包丁を送ってくれたのです。

今回は、漁師が使うマキリでした。マキリは、船上で使うだけあって、一本で全ての作業をこなせ、しかも手から離さずに使うことができる包丁です。
以前から、この包丁がよく切れると仕事もかなり早くなるのにと考えていましたが、マキリにも微妙に形状の違いがあり、最適な一本を選び出すためにはいろいろ使ってみないとわかりません。
何本か使った結果、最適なものを見つけだすことができましたので、いよいよ有次さんに電話を入れて相談にのっていただいたわけです。北海道から京都へ依頼するので、その形状を詳しく教えてほしいとのことで、写真やファックスで送ったのです。本来なら現物を送れば良いのですが、有次さん曰く、形状さえわかれば、厚みなどはこちらで最適にしますから。と。
もちろん名のある老舗ですから、全面的に信頼してお願いすることにしました。 一ヶ月程度かかるとのことでしたが、今から楽しみにしています。秋になると数百本もの鮭を捌くのですが、今年は楽しみです。
鋼入りとそうでないものの価格は大きく違いますが、もちろん鋼入りです。中途半端なものを作っていただくのであれば、わざわざ有次さんにお願いしません。
西の有次と呼ばれるだけあり、職人さんも親切に丁寧に対応してくれたことが、心に響きます。包丁という道具は人と一体となるとその真価を発揮するものなのだと感じる次第です。
包丁を研ぐ
包丁を研ぐ行為は私たちにとって道具の手入れであり、禅でもあります。切れが鈍ると鮭200本を捌くとき、柄を持つ握力が耐え切れません。身と骨の境、紙一重を切るとき、包丁の切れが冴えていないと綺麗に卸すことができません。
よく研いで狂いの無い包丁で魚を捌くと、切る細胞を最小に抑えることができ、旨味の流出を最小限に抑えることができるのです。
また、冴えのある包丁で魚を捌くと、刃がひとりでに走り、頭に思い描いた通りに狂いなく卸すことができます。
和包丁は日本刀の技術を受け継いでいる日本独自の素晴らしい文化です。 シンプルでいて、大切な機能はきちんと備わっていて、身を無駄にすることなく魚を卸せるのです。種類もたくさんあり、魚や野菜など素材に合わせた包丁があります。
自然とともに生き、自然を大切にしてきた日本人ならではの智慧が包丁に現れています。生きとし生きるもの、そのすべてを大切にしてきた心を詠むことが包丁研ぎであると感じます。

禅であると気づいたのはいつであったのか憶えていませんが、知ることが過ぎたとき、作品作りに迷いが生じたとき、そして仕事の原点を忘れかけたとき、夜中でも工場に灯りを点け、台の上に砥石を置いて、包丁の手入れをします。
砥石の中央一点を見つめ、頭と体の軸を一切動かさず研ぎはじめるのです。
数十本ある包丁のすべてを手入れしますが、2〜3本研ぎ終わる頃には、頭と精神が雪のように白くなり、雑念は一切消えます。少しでも研ぎの姿勢が狂ったり、考え事をしていると指を切ってしまったり、刃に狂いが生じるので、自然と雑念は消えます。
なにかに捉われたり行き詰まったとき、ざわざわとした気持ちを憶えることがありますが、全ての包丁が研ぎ終わる頃には、明鏡止水の如く心が澄み渡っています。
そして、人は「動」と「静」を抱きながら生きているのだと気づかせてくれるのです。 また、雑念や邪念などに捉われた心では、なにも良いものが生まれないことに気づかせてくれるのです。
私たちには私たちの大切なものがあります。人により、それはペンかもしれません、また、ギターかもしれません。包丁に限らず人それぞれ大切なものがあり、拠り所となっているのでしょう。
物である道具も、世の移ろいを人とともに歩んできた生き物なのです。
味は世に連れ人に連れ
味付けにはとても苦い思い出があります。ドレッシングの味が決まらず何度も何度も味見をしているうちに胸焼けがして、しばらくドレッシングの味をつけることができなかったことがあります。見るだけで胸が焼けてくるので、長い長いスランプに陥ったのです。味付けはほんの数秒が勝負です。一瞬の間にたくさんの味がわかることが経験により出来るようになります。
見た目、香り、酸味、甘み、苦味、辛味、塩味、そしてそれぞれの味覚や香りの調和など、ほんの少しの時間で見抜いて、足りないものを補ったりしなければいけません。
若い頃は、そんなことも知らずに何度も何度も味見をするものですから、最後には全くなにもわからない状態になり、次の日に再び味見をしてみると、いつもと違う味になっていたりしました。
良い味付けができるようになるまでには、気が遠くなるほどの経験を積み重ねます。自分の体調、味付けする時間はいつなのか、素材のこと、アラカルトなのか、コースの中の一品なのか、お客様の年齢はいかがなものか、ワインとともに食されるのか否か、そして時代のこと、地域性のこと、数えあげたらキリが無いくらいに味付けは奥が深いものです。

先入観や、固定観念があると、余計なスパイスが加えられます。入っているようでいて引いている、引いているようで入っていると、なにやらよくわからない表現ですが、柔軟な姿勢で対象に向かいます。
考えすぎると調和がわからなくなり、安易であると奥深いものができません。肩の力を抜き、精神を雑念の無い状態に整え、ひとつひとつの素材や味が語りかける言葉に耳を傾けます。あとは知識や経験が手助けをしてくれます。
感性と計算が職人の仕事だと思うのです。マニュアルでは決してたどり着けない世界がそこに存在します。
万人が美味しいと感じる味付けはございません。空間や、サービス、器などが与えるハーブ、そして哲学的なことも加味され、人生という塩梅が加わり完成するのでしょう。
歌は世に連れ人に連れと申しますが、味覚も同じだと思うのです。飽食の時代の味、健康重視の味、ファーストフードの味と、時代とともに人の味覚も変わっていきます。
これでよしという世界が無いことが醍醐味であると知ることができれば真の職人だと思うのです。
技術者の聖域
私たちには背筋が伸びる場所と申しますか、空間が存在します。そこには道具や、まな板、食材を捌く場所など、私たちと語ることができる物や人がいます。
本来私たちが目に見えるものには魂が宿っています。人はもちろんのこと、木々、土、草、コップ、包丁、まな板に至るまで全て宿っているのです。毎日毎日、幾度も幾度も接していると、ある日、それらは私たちに語りかけてくれるかのように、自らのことを話してくれます。
綺麗に魚を捌ける技術、「こうすればもっとうまくいくぞ」そんな声が聞こえてくるような気がするのです。それには幾度も幾度も彼らと真剣に付き合うことが大切です。
そんな付き合いをしているものたちが、私たちの背筋を伸ばしてくれ、心眼を開かせてくれます。私たちはそういう場所を偉大な力が働く聖域(somethig great)と呼び、自然界のルールに従って考え、行動します。
昔の職人はよく遊びました。遊び心を大切にし、粋な仕事をしました。人を楽しませるには自分が楽しみを知っていないとできません。私の父は大工職人で(現在は隠居しています)中学一年の時から父の大工仕事を手伝っていたのですが、やはりよく遊ぶ父でした。しかし、仕事場に入ると切り替えが早く、ノミやカンナを持つと粋な職人の目になります。

家を建てるときは、随所に遊びの空間を取り入れ、子供心に、その楽しさと神技のような道具の使いこなし、手捌きに驚きと感動の連続でした。「俺はカンナかけと、ゲンノウは誰にも負けない」と自慢していましたが、本当に自慢しても良い腕を持っていました。
ある日こんなことがありました。鉄砲のような釘打ちマシンを持った若い職人さんと、床打ちを二人ですることになったのですが、父は昔ながらのゲンノウ(かなづち)での手打ちです。
連続して釘が飛び出るマシンに勝負を挑んだかのように、父の目が真剣になりました。勝負は父の僅差の勝ちでした。しかも一本の打ち損ないもなく仕上げたものですから、神技としか表現のしようがありません。
そしてその時、私は未熟ながらも父の釘打ちに、もうひとつ感じたことがありました。スピードの競争だからと絶対に手を抜かなかったことです。釘のすべてが、しっかり利くところへ打ち込まれていたのです。
床張りした上にフローリング仕上げをするものですから、施主さんが見ていない限りいくらでもごまかせるのです。いや、見ておられてもごまかすことは出来るかもしれません。釘を少なく打つこともできてしまうのです。
そんな見えないところを誠実に仕事をした父を私は尊敬しました。
人の目や耳、手は、釘の利き具合、節や硬い木の部分を見抜きます。目で見分け、音で調べ、手に伝わる振動でわかるのです。そして釘が利き、木が割れないように、強弱斜め打ちを瞬時に切り替え打つことができます。
釘に触れず、木に触れず、ゲンノウから伝わる木の性質がわからないマシンには出来ないことです。
父もおそらくゲンノウと会話ができ、釘と会話でき、木と人と会話ができたのでしょう。施主さんからはいつも感謝の言葉をいただいていました。現在では、大量に早く家を完成させるにはマシンのほうが早いかもしれません。
しかし、ひとつひとつを丁寧に美しく、後々までお客様自身が手を加えたりできるような、そんな温かみのある家を作るには、やはり伝統技術のほうが優れているように思います。
今は伝統技術を持った職人さんが少なくなりましたが、本当はこんな時代だからこそ、知識や技術に奏でた職人さんが必要だと思うのです。
本質を見失ったとき、聖域はただの無機質なものになり、包丁は朽ち、まな板は枯れ、彼らが語りかけてくれることは無くなるでしょう。そして人の魂も錆びてしまうのです。
明日も明後日も厨房には素材と向き合い、道具と一体となり、阿吽の息を交わす聖域に私たちは立っています。 感謝!
活き、意気、粋、息、生き 嘉楽